●● ひとり --- マヨネーズ断ち ●●
「昨日の話の続きなんだけど」
朝、教室に入るなり、樋口はあたしの席へとやってきた。
あたしは樋口と目が合わないように身を翻し、自分の席に荷物を置く。
それでも樋口は付いてきた。決して近づきすぎないように。こちらの様子を伺うように。 仕方がないのであたしは勢いよく振り返った。
樋口の悪趣味な赤紫のネクタイが視界に入る。教壇に立っている限り、こんなにも身長差があるだなんて思わなかった。
「昨日の話って一体何のことでしたっけ」
「うん、だからそれを話そうと思って。畔の叔父さんの家って、確かアパート経営してたよな」
「そう、ですけど。何か?」
「うん。……一本が住む場所がね、ちょっと見つからないらしくって」
なんだ。タカモトのことか。
少し、ため息が出た。
どうしてこんなことでがっかりしなくちゃならないんだ? あたしは恥ずかしさを誤魔化すように一気にまくしたてる。
「そんなの、先生には全くもって関係のないことじゃないですか。そういうのは一本くん本人が捜すべきじゃないんですか? 生徒と教師とはいえ、赤の他人でしょう。そういうお節介は迷惑になることもあるって知らないんですか」
「一本はね、一応、他人じゃないんだよ」
その言葉に、あたしは思い切り恐ろしい想像をしてしまった。
いや、まさか。でも、そんな。
妙な緊張のせいか、額から脂汗がすうっと一筋流れ落ちる。
「それってどういう……」
質問をし終わる前に、タカモトがあきれ顔で割り込んできた。樋口のことばかり気にしていて、気づかなかったけれど、ずっとそこにいたのかもしれない。そう思えるほどに、自然に。
「ほら、だから駄目だって言ったろ。オレ、ずっと景吾くん家でイイって言ってるじゃん。家賃の半分はちゃんとバイトして入れるし、それにオレさ、料理とか家事とかバッチリっしょ。景吾くんの仕事の邪魔なんてぜってーしねーからさァ」
さっきの恐怖の連想が、現実のものとして迫ってくる。背筋がぞっと体温を失い、なぜだか胸がちくりと痛んだ。
「た、一本くん、今先生の家に住んでるんですか?」
「うん……ちょっと事情があってね」
樋口までもが視線をあさっての方向に逸らした。しかも気のせいか、少し頬が赤い。
ますます頭が混乱しているあたしを、タカモトは涼しい顔で嘯いてみせる。
「何、いきなり慌ててるんだよ。オレら別に男同士だし、何の問題もないだろ?」
男同士だからこそ、ヤバイんだって!
「さっきの話ですけど!」
「?」
「私の今住んでいるアパートになら、幾つか空き部屋があります。……叔父に話をつけます」
「ありがとう、畔さん。助かるよ」
「えー、オレ、景吾くんのうちのがいいって」
「人の好意は有難く受け取っておくものだよ」
にっこりと笑った樋口に、一本は口を尖らせたまま頷いた。
いつもと同じ帰り道。
いつもと違う、心象の悪さ。
「これは一体どういうことだろうねェ、タカモトくん」
電車の手すりに体重を預けて、もう少しのところで倒れ込みそうな姿勢になっていたタカモトは、目を擦りながらこちらを向いた。
薄い茶の猫毛がふにゃふにゃと揺れる
「知らね。文句だったら景吾くんに言ってよ。オレだって、畔と一緒なんてタルいんだからさ」
どうやら立ったまま寝る寸前だったらしい。
不機嫌そのものの声で、いつもより一オクターブは重低音だった。
「あのねェ。本人目の前にして失礼だとか思わないの?」
「畔オレのこと嫌いだろ。……そっちだって相当態度悪ィって気づかねェの?」
「……」
「……」
しん、とお互いに黙り込んでしまった。
がたたんごとん。
がたたたんごとん。
規則正しく電車は揺れる。
低い低い西日が目に染みて、遠くの緑がぼやけて見えた。
(確かに、所悪の根源は樋口だ)
あれからすぐに携帯で叔父さんにアパートの話をし、すんなりとタカモトがあたしの隣の部屋――何を勘違いしたのか、叔父は気を利かしたつもりらしい――への入居が決まった。わずか三日後のことだ。
そしたら何を思ったか、樋口が今日のうちに下見を済ませておくといい、と言い出しやがった。内心、タカモトも不満はあるみたいだった。けれど、樋口の言うことだから聞いたという様子だ。お陰様でさっきから、ずっとこの調子だから、全くもって勘弁して欲しい。
気まずい沈黙の中、少しだけタカモトに八つ当たりしてしまった自分に、自省の気持ちが生まれた。
ちらりと横目で斜め四十五度を見上げる。と、タカモトはふて腐れた顔つきのまま、目を閉じている。眉間には物凄い皺が寄っていた。
「……ごめん、言い過ぎた」
驚いたようにタカモトはこちらを凝視した。
それから、今度はさっきよりも幾分と落ち着いた声で、言う。
「……オレも悪かった。わざと神経逆撫でするような言い方しかできなくて」
それからも沈黙は続いた。でも、始めとは違って、居心地の悪くない静寂だった。
タカモトの、夕日を浴びた髪の毛が稲穂色に光る。
きれいだな。
なんとなく、そう思った。
「ただいま」
誰もいない部屋に、空しく響いた。
タカモトは不思議そうにあたしを見る。
「畔、いつもわざわざ挨拶してんの?」
「……悪い? 癖なんだけど」
「別に。んなこと言ってないじゃん。……あれ、テレビ付きっぱなしだぞ。消さなくていいのか」
タカモトは靴を脱ぎ捨て、テレビに駆け寄り、電源をOFFにしようとする。あたしはカバンや荷物を机の上に放り出して、回転椅子に腰かけた。
「いいの。わざと付けてあるんだから」
「げ、電気代勿体ねー」
顔をしかめたタカモトは、すぐに床の上に放り出してあったリモコンを取る。丁度掴んだ時にビデオの再生ボタンを押してしまったらしく、ビデオが再生された。
それは、もう二年か三年前に放映された、マイナーな六人組お笑いグループの深夜番組だ。全編はドラマ仕立の三十分コントになっている。なかなか面白かったけど、今ではもうやっていない。タカモトも興味すら抱かないんだろう。どうせ『知る人ぞ知る』グループなんだから。
「あ、消しといていいよ。どうせ興味ないだろうし」
けれど、タカモトはディスプレイから目を放さなかった。その場に正座をして、しっかりと画面を熟視している。心なしか目がきらきらと輝く。たっぷり一分程の間の後タカモトは、すっげー、と長いため息を吐き出した。
それから、勢いよくあたしの方へ振り向く。
「これ『さるしばい』じゃん」
「知ってるの?」
あまりの意外さに、声が上ずる。
「知ってるも何も、……オレ、ジョビジョバすっげー好きなの。ひょっとして……畔も?」
「……悪い?」
タカモトは何度も首を横に振る。
それからヤツは、まさか、最高だよ、と大声で言った。今までとは全く違う、親しみのこもった明るい声で。
あたしは、呆気にとられてしまい、……それでもなんだか少し嬉しくなってくる。
それからは、相手がタカモトだとは忘れるほどに、話が盛り上がってしまった。
「それより畔さ、ジョビジョバん中じゃ誰が一番好き?」
「六角さん」
「マジ? 実はオレも、なんだ」
「タカモトも?」
「うん。『さるしばい』の志賀のキャラってめちゃくちゃオイシイよな。第五話のさ、あれ、あのピンクの怪獣パジャマ!」
「あ、あれ可愛いよね! もー、あんな変なパジャマが似合うの、きっと六角さんだけだよ。あとさ、オープニングの長谷川さん。あんなに無駄に格好いいんだろうね」
「それオレも思った。ラジカセ持って踊るとこ、かっけーよな」
「タバコの煙もまた決まってるし!」
「でもやっぱ六角さんだよな。あのしゃくれ具合とか、たまんねーもん」
「そうそう! 男はやっぱりしゃくれだよ!」
「じゃさ、畔、こないだ始まった『胸騒ぎの土曜日』見てる?」
「勿論。……でもまさか、タカモトとジョビジョバの話でこんなに盛り上がれるだなんて思わなかったよ。あたしの周り、知ってる人すらいないもん」
「オレだってまさか畔とこんなに話が合うなんて思わなかった。……決めた! オレ、夕飯はココで食おう。ジョビジョバのビデオ、見せてよ」
あまりにテンポよく会話が進んだので、もう少しで頷いてしまいそうになった。けれどすんでのところで、タカモトの言葉の意味を悟り、あたしはヤツの顔を凝視する。
「あ?」
タカモトはにっこりと満面の笑みを浮かべ、右手の親指を立てて見せる。初めて私に向けられた笑顔は、恐ろしいほどに爽やかで、逆にあたしの心を不安で一杯にした。
そんなあたしにはお構いなしに、タカモトは勝手に話を進める。
「よし決定!」
「ちょ、ちょっと、勝手に決めないでよ」
「何だよ、ノリ悪ィ。さっきはあんなに盛り上がったのに」
「それとこれとは話が別! 好きなことの話題だったから油断してただけ」
「いいじゃん、いいじゃん。料理はオレ作るし。畔も幸せ、オレも幸せ! これで一件落着!」
「え、料理、作ってくれるの?」
タカモトの言葉に、あたしは思わず顔をあげてしまった。自慢じゃないが、あたしは料理を不味く作ることに関しては、抜きん出た才能がある。美由紀曰く、あそこまで不味く作るのは天性の才能じゃないかと思える位に。
「おう、作るから。特におふくろの味系は、パーフェクトだぞ。景吾くんのお墨付き。だから、な。な。いいだろ、な」
ここぞとばかりにまくしたてるタカモトに気押され思わず頷いてしまう。
途端、タカモトはにやり、と顔を歪めた。
………………イヤな予感がする。ひょっとして墓穴掘ったのか?
「おっしゃー! こうなったら畔にマヨネーズ断ちさせてみせるからな!」
タカモトは両手にガッツポーズを作って、立ち上がった。
「ど、どーしてあたしがマヨラーだって知ってるの?」
「どうしても何も、……さっき畔がコンビニで迷ってたの、全部マヨネーズ系だけじゃん」
そこで、あたしはさっき今日の夕ご飯のために寄ったコンビニでのことを思い出す。確かに、言われてみればそうかもしれない。今日のあたしが迷ったものを羅列すると、サケマヨおにぎり、マヨネーズ増量ツナサンド、マヨコーンパン、ポテマヨサラダ、マヨ冷やし中華、チューブ入りマヨネーズ付きマヨきしめん(以下省略)……。あたしは、それ以外の物には興味すら持たなかった。
「だからって」
なんとか体制を建て直そうとするものの、タカモトはしたり顔で畳みかける。
「それに、いっつも学校にマヨネーズチューブ持ってきてんじゃん。あれ、すっげー気になってたんだよねー」
「タ、タカモトには全然関係ないじゃない」
「んー。そだけどねー。でもさ、オレ、食材の味も分かんなくなるほど調味料かけるヤツ、許せないんだよね。料理人として」
「いつから料理人になったの!」
「おー、いいツッコミ! いいなあ、畔。いままで絡まないでおいた自分が口惜しいよ」
「絡むって……」
「ともかく! オレの目の黒いうちは、マヨラーなんか許しては置けないわけですヨ」
「そんなの、個人の自由でしょ」
「そう? 本当にそう思う? そりゃ、今はまだいいよ。でも社会に出てから、やむ終えずマヨネーズが使えない時とかも出てくるだろ。そういう時困らないためにも、今のうちから努力しておくってのも、無駄じゃないと思うけど」
……言い返せない。言葉に詰まったあたしに、タカモトは子供をあやすように穏やかに笑いかけてきた。
「オッケー?」
「……おっけー」
「んじゃ、ついでに今日から畔のことは、ありりんと呼ぼう!」
「ありりんって……」
「いーじゃん、ありりん☆」
「……それだけはヤメテ。あ、あたし、名字で呼ばれるの好きなの。だから名字で! そう、名字で呼んで!」
「えー、じゃあ…………あ、畔だから、みさぴょんってのはどう?」
「………………お願いだから、フツーに呼んでよ、マジでさ」
「そういえば」
帰り際、座ってスニーカーを履いていたタカモトは、思い出したように思い出したように顔を上げた。
「?」
「や、でも大したことじゃねーし」
「気になるから言ってよ」
「んー、でもさ、……畔、絶対怒らないって約束する?」
「する、する。だから」
「んじゃー、言うけど……あ、聞いた後でいちゃもんつけんなよ」
「分かったから、早く」
それでも少しためらった後、タカモトは呟くように言う。
「……しゃくれっていえば、景吾くんも結構見事に顎がしゃくれてるよね。んじゃ」
全部言い終わらないうちに、タカモトはドアの向こうへ行ってしまっていた。まさに、言い逃げだ。
「何、それ…………」
……あまりに予想外の事態に、あたしの思考回路は一時ショートを起こしてしまった。
その日の夜、変な夢を見た。
夢の中であたしは、タカモトに必死で「言い訳」をくり返している。
――樋口なんか好きじゃない。好きじゃない。好きなわけないじゃない、あんなオジサン。そう。そんなわけない。気のせいだよ。気のせい。
――だったらさ、畔。どうしていつも景吾くんのことばっかり見てるの?
――見てないもん。見てるわけないでしょ。
――いいや、見てるじゃないか。
――見てない。大体、そんなこと、タカモトには関係ないじゃん。
――ふーん、関係ナイんだ。だったら、オレが景吾くんとつき合っても、畔は何も文句ナイってことだよな。
――それとこれは!
起きたら、涙でまつ毛がビシビシにくっついていて、痛かった。
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